LastUpdate02/04/09
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数学の4つの側面


キース・デブリン

数学は世界に4つの側面を示している

1、計算、形式的な証明、問題解決としての数学
2、知るための方法としての数学
3、創造の手段としての数学
4、数学の応用


 ほとんどの場合、現在の幼稚園から大学までの教育は1つ目の側面に集中しており、4つ目の側面をわずかに触れているだけで、残る2つの側面にはわずかな注意しか払っていない。この記事で、私は21世紀に入る今、数学教育は4つのすべての側面を示さなければならないことを主張する。


◆なぜ教育か

 学校教育の目的は何であろうか。過去においては、少なくとも1つの機能として、若者たちに別々の職業において必要となる(最低限度のいくつくかの)知識と技術を与えるものと答えることが可能であった。そのような観点がたとえ一度は正当と認められたとしても、ひとつの決定的な特定の能力――状況の変化に適応し、新しい技術をすばやく身に付ける能力――を除いて、誰も数年後どのような知識や技術が重要であるかわからないほど変化のペースが早く、とても専門的な知識がほとんどの職業で要求される今日で、それは適用されないだろう。

 私のベターな回答は、学校教育の目的は若者たちが将来の職業生活において必要となったときに専門的な知識や技術を身につける能力を育てることである。

 私は2番目の回答がよりベターだと考えている。しかし、私は職業のための準備が学校教育の本当の目的の1つであると考えている。私の知る、本当の目的とは、我々の文化の主たる要素を伝え、十分でかつ活動的な人生を導けるように若者たちを育て、市民として十分な役割を演じさせることである。この目的は非常に広く大望のあることであるが、おそらく病める者も富める者もそのような余裕のあるものはいないだろう。しかしながら、ほとんどの市民が自分たちの人生をどのように生きたいかについての十分な選択肢を持てるように裕福になるためには、すべての社会、当然我々の社会、にとって私の提案したのものは唯一の適切な目的である。

 このエッセイで私が調べたい問題というのは、この教育の観点が、数学に還元されたときどのような影響があるかである。


◆なぜ数学か

 若者達に与える教育の一部分をなぜ数学が形作っているのか。「今後の職業の準備のために、どれくらいの数学が典型的な若者に必要であるのか」という数学の実用の側面に集中することによって、一般の教育の立場としての、私の解答から始めることにする。

 この単純な解答は、一般に想定されているものよりもはるかに少ない、である。現代社会の市民たちのほとんどは、数学における知識や技術を使うことを必要としていない。彼らが必要とし利用している数学というものは、彼らが12歳までに出会ったものである。(大変興味深いことは、それ以前の年齢では、大部分の子供たちが、数学は“好きである”といっていることである。)

  しかしながら、現代社会の延長においては、かなりの数学の訓練をした少数の人々を着実に供給する必要がある。産業時代において、我々は生産の原動力として化石燃料を生み出したように、今日の情報時代に我々が生み出した主な燃料は数学である。我々が数学教育を行うかぎり、将来にわたる数学の供給が枯れることはなく、その科目に興味や才能があり、それを勉強することを選択した高校や大学の学生に、我々は数学の性質や重要性に気づかせることを保証しなければならない。

 上のふたつの観察は、幼稚園から大学までの数学教育に関する明らかな結果を持っている:主な目標は数学の性質と現代の社会での演ずる役割を知ることである。そのために、幼稚園から大学までの数学は実用の道具箱としてではなく、人類の文化の一部分として、歴史や地理や英文学のように考えるべきである。私が主張した目標を振り返ると、それは教育された市民を生産することで、12ドルのみすぼらしい計算機の模造品を作ることではない。教育された市民は数学に関する次の2つの質問に答えられるはずである:

・ 数学とは何か。
・ 数学はどこでどのように使われるか。

 ほとんどの人々はどちらの質問にも完全に答えることはできない。これらの2つの質問に対する私の答えを与える――私が信じている答えは、十分な量の数学教育をすべての人々に与えることである。ところで、数学への正しいアプローチの手順から、(広い人類の知識と知るための方法である)人類の文化の一部分として我々に取り巻いてる数学への変化は、私が最初の項目で述べた学校教育の目標の哲学のすべてを保持していることに私は気づく。そして今でも、明らかにより実用的な将来の生活手段の準備としての観点から、私は同じ結論に到達している。

 人類の文化の一部分としての数学の広い視点を生徒たちに与えるために、我々は数学の4つの側面のすべてに焦点を当てる必要がある。我々はどのようにすればよいのだろうか。


◆有名な側面

 数学の1つ目の側面(計算、形式的証明、問題解決)は多くの人に最もよく知られたもののひとつである。これは我々が数学教育を考えるときに、我々が一般に集中する側面である。私がこれについて長々と書かなくてよいほどよく知られているけれども、私はこの数学の側面をあきらめることを主張することをしない。ポケット計算機やコンピュータは知的な算数における技術の発展に膨大な量の時間を必要しなくすむようにしたけれども、基本的な算数や数に対するよい感覚は今日の世界においてすべての人々が持つべき貴重な技術である。その上、数学を学ぶことは他の方法では得ることができない精神の発達の一般的な利益を与えるようである。たとえば、高等学校での代数学を使う人はほとんどいないけれども、高等学校で代数学や幾何学の厳しい授業を受けた学生は、大学に入学する数が多いだけでなく、勉強する以前よりもよい行いをするようになる。要約すると、数学における厳しい授業をやり終えることは(それは学生がよい成績を修める必要はなく)精神を敏感にし、問題解決の技術や分析的な試行を発展させる優れた方法であるらしい。

 このような利益にもかかわらず、しかしながら、もし我々が数学の最初の側面に集中し、残った3つの側面を無視しつづけると、我々は学生(すなわち将来の市民)を見捨てるだけでなく、人類のもっともすばらしい文化の業績に対して多大なる害を成す。


◆知るための方法としての数学

 人類の活動として考えると、数学というのは我々の住む世界のちがった側面を知り、理解するには格別の方法である。数学というのはあらゆる意味でたった一つの知るための方法ではなく、生物学、化学、物理学、心理学、社会学、言語学、詩、絵画、彫刻、脚本や小説を書くこと、は多くの知るための方法である。しかしながら、数学というのは、最も成功することが証明された、知るための方法である。今日、数学の成果というのは、重要で将来にわたる方法として、我々の生活の側面に影響することはない。あなたが我々の生活の根底から支える技術的で意思疎通の基礎となるものを考えるとき、私たちが数学の宇宙に住んでいるという事実に気が付く。

 おのおの知るための方法はそれぞれ、格別の特徴をもっている。我々が数学と呼んでいるものは、正確にはどのような知るための方法なのか。ほとんどの人々は、数学というのは数をうまく処理する為の規則の集まりと考えているが、彼らは間違っている。数をうまく処理するのは数学のほんの一部分でしかない。私の知っているもっとも簡単で正確な数学の説明は次である:数学とはパターンの科学である。数学者は世界のある側面を見ようとし、奥深くにある本質を残して複雑なものを取り払っていく。このような方法で世界の別々の側面を見ることは、別の種類のパターンに注目することで、違った数学の分野に導く。たとえば、

算術や数論は、数や計算のパターンの研究である
幾何学は、図形のパターンの研究である
微積分学は、運動のパターンの手がかりを与える
論理は、推論のパターンの研究である
確率論は、チャンスのパターンの研究である
ポロジーは、閉鎖や位置のパターンの研究である
射影幾何学は、2次元の絵の深さを知ることを可能にしたパターンの研究から生じたものである
群論は対称性のパターンの研究から生じたものである


 もちろん、このような違った種類の数学(私がリストに挙げなかったすべての分野に関していうべきことはない)がどのようなものかを生徒に教えることは実用的なことではなし、そのようなことを私は主張するのではない。むしろ私は、生徒たちにすべての数学を作り上げている多くの分野があることに気づかせることが重要であると考える。

 気づかせるためにはどのようなことに取り組めばよいだろうか。幾つかの多くの数学の応用の特徴を述べることによって取り組む、というのが私の答えである。そのようにすることによって、我々は生徒に、数学は見えないものを見えるものにすることによって機能していることを示すことができる。我々は見えないものを別の方法で“見る”(それゆえに理解する)ことで、数学の論証というのは驚くべき人間の精神の構造であるが、人類の発明の才や知的な想像力の重要な根拠となる。次は私が考えているいくつかの例である。

 数学がなければ、ジャンボジェット機が空に浮かんでいることを理解する方法はない。我々が知っているように、大きな鉄の塊というのは支えなしに地面の上に存在することはない。しかし我々は航空機を持ち上げているものを見ることはできない。何が飛行機を上に持ち上げているかを、我々が“見る”のを数学は助けてくれる。この例では、18世紀初めの数学者ダニエル・ベルヌーイによって、見えないものを“見る”方程式が発見された。

 我々が手を離したとき、飛行機以外の物体が地面に落ちる原因は何であろうか。“重力”というのがあなた方の答えです。しかしあなたは単に現象に名前を与えているだけである。我々がそれを“魔法”と呼ぶのと同じである。これではまだ見えてこない。それを理解するために、我々は“見る”必要がある。17世紀にニュートンが運動方程式とその仕組みを発見したことは有名である。ニュートンの運動方程式は、地球が太陽の周りを公転し続けたり、林檎が樹から地面に落ちる原因である、目に見えない力を見ることができるようにした。

 ベルヌーイの方程式やニュートンの方程式の両方は微積分学を使っている。微積分学は非常に小さいものを見えるようにする働きがある。見えないものを見えるものにする別の例も存在する。

 我々が宇宙空間に宇宙船を送り、我々の惑星の写真をとることができるようになる2000年前、ギリシャの数学者のエラトステネスは数学を使って地球は丸いということを示した。実は、彼は99%の誤差で直径、それゆえに曲率を計算した。今日、我々はエラトステネスの業績を延長していき、宇宙の曲がっていることを発見した。数学や強力な望遠鏡を使うことによって、目の届く範囲の宇宙を我々は“見る”ことができる。幾人かの天文学者によると、我々が空間のあらゆる曲率を発見し測定することができるようになるとのことである。

 もし空間の曲率が計算できると、我々は数学を使って将来宇宙が終わる日が来ることがわかる。科学の理論と共同して数学を使うことで、我々はすでに遥か昔のことがわかる、すなわち見えないビッグバンと呼ばれる宇宙の最初の瞬間を見ることができる。

 話を地球に戻すと、いったい何が、フットボールの試合の映像と音を別の都市のテレビの画面に映しているのだろうか。ひとつの答えは、映像と音は電波(特に我々は電磁放射線と呼ぶ)によって伝えられる。しかし重力と同様に、専門用語は現象に名前を与えただけであり、それは“見る”ということには役に立たない。電波を“見る”ためには、我々は数学を使う必要がある。マクスウェル方程式、前世紀に発見されたが、目に見えない電波を見えるものにしてくれる。

 同様に、数学は人間のパターンの特徴を述べてきた:

アリストテネスは我々が音楽として感じている目に見えない音のパターンを“見る”ために数学を使った
アリストテネスはまた、目に見えない芝居の構造を特徴付けしようとして数学を使った
1950年代、言語学者のノアーム・チョムスキーは目に見えない、我々が文法上の文として感じている抽象的な言葉のパターンを“見“たり、特長付けするために数学を使った。それによって彼は、言語学というのを不明瞭な人類学の分野から成長した数学的な科学に変換させた。


 最後に、数学を使って、我々は未来を見ることができる:

確率論や数学的な静止学は、しばしば注目すべき正確さで、選挙の結果を予想するのに役に立つ
我々は微積分学を明日の天気を予想するのに使う
市場分析は、株式市場の将来の振る舞いを予想するためにさまざまな数学の理論を使う
保険会社は、来るべき年の間のアクシデントの可能性を予想するために静止学や確率論を使い、それに応じて保険料を定める


 数学は我々が将来を予想するのを助けるとき、目に見えないものを見えるものにするのを可能にする。ある条件の元では我々の数学的視点というのは完璧ではない:我々の予想は外れてしまう。しかし数学がなかったら、我々はもっと貧しかったであろう。

 もう一度強調しておくべきことは、私は上にあげた応用面がどのように数学と関係しているかを生徒に教えるべきだと主張しているのではない。もっと正確に言えば、我々が生徒にさせる数学にしたがって、我々は多くの分野(おそらくは先端のものであるが)の幾つかの特徴を述べ、それらが応用されている違った例を与えるべきである。国内旅行をするために車がどのように作られ修理するかを知る必要がないように、数学がどのように使われているか、を知るために、数学がどのようなものか、を知る必要はない。この推論は私が次に書いた3つ目の数学の側面と同様に作用する。


◆創造の手段としての数学

 ほとんどの人々が現代数学の幅というものに気が付いていない。彫刻家が石を使い、画家がキャンパスや絵の具を使い、小説家が言葉を使うのと同じように、数学は創造の手段としても使われることを、よりほとんどの人々が知らない。創造の手段として使われると、数学は再び目に見えないものを見えるものにしてしまう。たとえば、我々の心に創造的な考えが浮かんでくるが、他人には見えずに、それらを共通する知覚に近づけることで、他人はそれらを形作り、我々の考えを経験することができる。創造の手段としての数学は数学の3つ目の側面である。

 ルネサンスにおいて、芸術家たちは、2次元の絵をかくときどのようにして深さを表現するかに気が付き、最初の数学の創造としての利用が起こった。芸術家は、数学者が射影幾何学と呼ぶ遠近法の規則をトリックとして言い始めた。専門用語がどのようなものであれ、基礎となる考えは幾何学によって発見され、幾何学が使われている。―幾何学の視点

 ルネサンスの芸術家と同様に、現代の芸術家たちも映画産業のための手触りや陰影を伴ったリアルなコンピュータグラフィックスを作るために光線透写と呼ばれる光の幾何学を学んできた。

 もっと一般的に、多くのデジタルの特別な効果が今日の映画産業に働いた結果、数学は創造の手段として使われるようになった。特別な効果の芸術家は、創造のためにコンピュータを使い、コンピュータに発生し蓄えられた大きな数字の列が画面やフイルムの上のピクセル画素に色をつけるとき、その過程の結果目に見えるものとなったイメージの数学的な記述を巧みに扱うことにコンピュータを使う。

 コンピュータを手に入れる遥か昔は、イギリスの作家エドウィンAアボートは、彼の楽しい長編小説フラットランド(アボート1891)において、2次元と3次元の幾何学をヴィクトリア王朝のイギリスにおける社会の慣習の洞察的な風刺の論評の手段として使った。現代において、脚本家であるトム・ソトッパードは彼の多数の芝居において、アルカディア(ソトッパード1996)が主要な例であるが、数学を社会を論評する手段として使っている。

 アボードやストッパードの両方は、数学者ではなく芸術家であるが、数学の創造的使用の例を与える。芸術家は自分たちは数学に関して無知であるとしている(けれども興味深いことに、彼らは数学について無知なのではなく、彼らが使っているものの数学的側面について無知なのである)。別の例で、19世紀の非ユークリッド幾何学の発見や4次元幾何学の研究は多くの芸術家たちを空間や次元の性質を探求したり実験することを鼓舞した。この種の注目すべき芸術の発展は、全く明らかの数学の道具として、パーブル・ピカソやその他による、絵画の立体画家運動にあった。ドイツの芸術家M.C.エッシャーは彼の絵画において違った幾何学の表現やエッチングを試みた別の芸術家であり、エッシャーは事実数学を勉強し、時々彼の仕事は数学に関するものであった。

 最近の芸術家、トニー・ロビンは超遠近画法である、2次元のキャンバスに4次元空間を描こうとする彼の仕事に多くの時間を費やしている。ロビンによれば、芸術のひとつの主たる目的は、反射し、論評し、それによって、生活のさまざまな側面を理解するのに役立たせることである。彼は、多民族や多民族社会の多次元の複雑な生活を視覚化し理解する方法として、高次元の空間を探求している。

 ヴァーチャル・リアリティーの芸術は数学に強く依存しているモダンアートの別の領域である。マークス・ノバークのような芸術家は、芸術家が数学を使って創りあげた芸術の世界(その世界というのは多次元のものであり、我々が慣れ親しんでいる日常の世界とは大変違った幾何学によって組み立てられている)に「踏み込み、探検する」ために、ユーザは立体鏡でステレオ方式のヘルメットをかぶり、特別なグローブをはめて、「大量の経験」を創造するために数学を使う。

 もちろん、創造の手段として数学を使うことは数学の応用のひとつである(そして、そのために知るための方法でもある)。それだから、我々はすでに数学の4つ目の側面――数学の応用――に偶然にも出会っている。しかし私は今までの側面とは別に、数学の応用を考えていきたい。


◆応用

 数学教育には応用という側面が含まれるべきである。十分な生活を送るために、すべての人はいったい何が生活を可能にしているかに気づくべきである。特に、現代社会は前世紀(特にその後半)に発展してきた、多くの数学の応用に依存している。我々が、車や列車、飛行機によって旅行をするとき、我々は数学に依存した世界に踏み込んでいる。我々が電話で話したり、公的な賭博的なイベントに参加するとき、我々は数学の製品を楽しんでいる。我々が病院に行ったり、保険金をかけるとき、我々は数学に依存している。教育者として、我々は生徒に今日の世界の中で数学の応用の及ぶ範囲や深さ、その深い衝撃に気づかせる責任を負っている。

 もちろん、我々の日常の世界の背後に潜んでいる数学のほとんどは高度で非常に専門化したものであり、確かにすべてが必要なわけではないが、わずかな数の専門家が数学を理解している。その結果、ほとんどの数学の応用のクラスでの討論というのは、ただの討論に終わる必要があるだろう。その上コンピュータ技術の進歩により、我は、生徒にいくつかのうまく選ばれた数学の応用を現実に行わせるのが、より簡単になっている。それゆえ、我々はただ一人で数学の応用について語る必要がなくなった。我々は生徒たちにいくつかの応用をさせることが可能である。私が主張する別の応用の「旅行」を確かに含んだ活動のひとつである。


◆数学を正しく理解する

 数学教育のシステムを根本的に変えることによって、大多数の学生の主要な目的は、ごく少数の学生しか使わないような技術の発展よりもむしろ、数学の何が、どうして、なぜ、に気づかせるために、我々は2つの重要な目的を成し遂げなければならない:

1. 明日の市民が自分達が住んでいる文化への主な発達の影響の1つによって普及力のある役わりを正しく理解すること。
2. 発展的な数学に興味と才能を持つ個人は早い年齢において題材の本質や範囲におさらし、その結果、自分自身と社会全体の利益への興味を追い求める機会を持つこと。


 目的1の正当性は次の通りである:人間は自分たちの生活の性質のよりよい理解をすることによって、より豊かになる。我々が世界や自分たち自身をより知ることによって、我々の生活はより豊かになる。

 目的2に関して、微積分学を含む高校数学の成功は、数学における今後の成功を予言するものではない。微積分を通して数学というものは、大部分は(であるが、もっぱらではない)アルゴリズムである:多くの生徒によって採用された成功した計画は、単にさまざまなルールや手順を学び、いつどのようにそれを応用するか知ることである。対称的に、多くの(けれどもすべてではない)微積分の背後にある大学レベルの数学というのは、高い創造性であり、独創的な考えや新しい方法でものを見る能力を要求する。であるから、創造的な数学者というのはしばしば、規則を応用しアルゴリズム的な考えを使うことが必要になり、多くの成功した数学者というのは高校の数学の授業において本当に優れている。しかし、高校の数学で光るものをもつ多くの学生は、彼らがアルゴリズム的な能力が十分でないと気づいたとき、大学における科目に対してもがき、結局はあきらめてしまう。大変すばらしい数学の教授の中には高校の数学は不得意であったものもいるが、幸運にも人生においてその訓練を引き伸ばされたという事実は、現在の我々の学校における数学教育は、将来数学において偉大な才能をもつかも知れない学生を消し去っていることを示唆している。


◆量に関する教養

 この記事の焦点は数学教育に関することであり、特に生活において数学を使っていない大多数の人々のためのものである。私はほとんど量に関する教養が何であるかをほとんど無視してきた。数学と量に関する教養が同じものではないということを認めることが重要である。乱暴な言い方をすれば、時として基礎的な計算力と呼ばれる、量に関する教養は、ある範囲における大きさの順序を見積もる能力や数のデータを理解する能力、チャートやグラフを読み取る能力、数や統計を根拠にした議論を理解する能力を含む、論理的な数のセンスで構成される。

 人々はしばしば教養を数学と混合するので、私は、この記事の焦点ではないけれども、前のことについて議論したい。

 今日の社会において、基本的計算能力は、教養と同じく、基本的な生活技術である。その結果、教養はすべての教師の責任であると同時に、英語の授業だけでなく、授業のたびにすべての時間において発展させるべきである。数学や科学の教師の責任であると同時に、歴史や家庭経済、心理学の教育の教師の責任でもある。基本的な量に関する技術についてどういうわけか、基本的な言語の技術と引き離した間違ったメッセージが生徒が送られる。数学と量に関する教養を混合することは単に問題を混合することである。

 いくつかの評価によると、合衆国の大人の人口の10%に満たない人々しか量に関する教養を持たない。このような数は解釈するのが難しい。1つの理由として量に関する教養というのはテストで計れるものと違って、固定した基準ではない。しかしながら、疑問の背後には、合衆国の国民は明らかに量に関する教養がない。この不正は、(1)基本的な言語技術と同様に、すべての教師の基本的な責任としての量的教養に関係なく、(2)数学と量に関する教養を混合すること、そして(3)数学、しかしながら少数しか到達できない(そして逆に、数学の技術における傾きは最近の現象であり、おそらく一部分も到達していないという意見でしばしば表現される)の部分における成し遂げられた広範囲に及ぶ技量の結果の追跡の結果である。

 多くの人々は音楽の楽器を演奏するよりも音楽を正しく理解している。多くの人々は小説や脚本を書くことよりもそれらを読むことをより楽しむことができる。多くの人々は自動車を修理する知識や技術を持つことよりもそれを乗る利益を楽しむ。単純に、訓練において実用的な技術を成し遂げようとすることを強制する以外に、数学の応用が人々を助けることが可能であることに気づくはずである。もし我々が量に関する教養と数学が違うことに気づき、もし我々が量に関する教養がすべての人の責任であることを受け入れ、もし我々が気づくことを発展させる目的や、現代社会の性質や範囲、関連性と共に数学を教えれば、そのとき、私はなぜ我々は人口の大部分における質に関する教養のすべてのレベルと一般的な数学の教養の低いレベルの両方における劇的な改良ができないのか理由がわからない。


◆どのようにすればよいか

 私が主張する広い数学の外観を持つ学生を供給するには我々が高等学校の数学の教員を準備する主な変化を必要とする。同時に、数学や科学の教員だけでなく、すべての教員を我々が準備をする変化を量的教養の重要な目標を失う課程をしないことを保証することは要求する。

 今日の学生に数学の広い概観を供給することは、一流の印刷された資料を準備するのと同様に、利用できるメディアすべて、特にビデオや相互に作用するコンピュータテクノロジー、の独創的利用を必要とする。私が提案する教育にテキストブックは適したものではないと信じているので、私はテキストブックという言葉を使うことさける。最もよいものは、いつも言っている質の高い解説的な本としての有名な科学雑誌である。この記事の最後にそのような本のリストを上げている。

 多くの場合、私が主張してきたことは、根本的に新しい教育の方法を開発することを要求していない。歴史や地理、経済や心理学の教師は記述的な事実の中身と手続き上の側面の両方を持った科目をどのように教えるかを知っている。そういった訓練の代わりに、教えることは一般に手続き上のものというよりも事実的なそして記述的なものである。私の提案することは数学を教えるスタイルを採用するものであるが、おそらく記述的なものと手続き的なものとのバランスが難しい。

 もちろん、数学というものはどのような教師でもそのすべてを習得するには広すぎるが、数学は同じ主題が変化することによって成り立っている:同一視、抽象概念、研究、パターンの応用、論理的証明の知的道具としての利用。数学のひとつの領域を習得した教師は、別の領域の専門化が理解しやすい解説的な資料を生産することを与える、別の領域における発見の船旅での生徒のガイドに関して困難はほとんどないであろう。この種の資料の例として、私が心に残っているのは、1998年のパブリックブロードキャスト制作のLife by the Numbersである。ピッツバークのWQED Televisonの制作によって、7回のシリーズで、ビデオも利用できるが、異常に大きい現代数学の範囲と我々の生活のすべての側面における役わりを示した。

 最後に、教育とは国民に関するものである。我々が、どんなに興味のある本やもっともらしいテレビ番組、手の込んだコンピュータの製品にお金を費やしても、我々が最先端のものよりも教師により多くの資金を注がない限り、何も進展しないであろう。この発行は社会的なものである。幼稚園から大学までの数学教育を自然に関する広い概念や数学の広さ、現代社会での役わりを供給することに再構築することによって、我々は、よく準備された数学の教師十分な量の供給を発展させる重要性に気づくために十分に数学を感知でき、若い人々に彼らが必要としそれにふさわしい数学教育を与えるために必要な資源を備え付けた、新しい世代の社会的リーダーを育成することを私は理想主義の夢物語であるとは望みたくない。以前から私は述べていたが、数学は情報時代の燃料である。そして、教育というのは燃料を製造する方法である。

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